気高きジョウルの膨らみ

去勢された牡猫の睾丸へ捧げる鎮魂歌

里親里子に思うこと

Vocatus atque non vocatus, Deus aderit.

blog.lalamiamor.net

高円寺ららぁ氏のエントリーを拝読して感じることがあったので記しておきたい。
 
このエントリーでは高円寺ご夫妻が里親登録をしていることを告白している。 恥ずかしながら里親になったとしても、里子の親権が未だ実の親にあることをこの記事で知った。里親制度と養子縁組制度とがごっちゃになっていたようだ。また、実際に里親を必要としているのは多感な年頃の中高生達であるということも知らなかったことだ。
 

前置き 猫の話

それはそうと、まず、飼い主のいない猫、つまり野良猫を例に出す無礼を許していただきたい。僕の関心は人間のことよりも猫のことの方が比重が大きいので、どうしてもそうなってしまう。里親を必要としている子供達が野良猫と同じだなどという気はさらさらないので悪意に取らないで欲しい。
 
人間に一度も飼われたことの無い猫というのは、食べ物を求めてさまよう内に人の家の敷地に入り込んでは乱暴に追い払われ、ゴミをあさっては邪険に扱われて、極度に人間不信になっている。臆病でなければ、用心深くなければ、疑り深くなければ生き残れない。
 
そのような猫を保護すると、せまいケージのさらに片隅にうずくまったまま、恐怖と怒りとに支配され、飢えているはずなのに差し出した食事にさえ手をつけようとはしない。そのままでは、人と一緒に暮らしていくのは不可能なので、ゆっくりと時間をかけて懐柔していくことになるわけだが、猫という生き物は厭だった記憶、恐怖を覚えた記憶は決して忘れたりはしないものだ。時にそうした頑なに心を閉ざした猫が人間に心を許すようになるのは並大抵のことではない事がある。
 
万策尽きて、もうお手上げ、この後どうしたら良いだろうか?と今度はこちらが途方に暮れて、先行きに不安になる頃に事件が起きた。
 
食事をケージの中に差し入れた後に、飲み水を取り替えようと不用意に手を差し入れた途端に、がぶりと酷く手を咬まれてしまった。完全にこちらの落ち度ではあるし、このくらいのことで、取り乱して怒ったり、ましてや暴力を振るったりはしないよ、驚かして悪かったね。そう彼に言い聞かせてそのときは終わった。幸い手の傷もパスツレラ等にならずに済んだ。
 
しかし、その日を境にあれだけ頑なだったその仔の態度が少しずつ少しずつ柔らかくなっていった様な気がするのだ。最終的には優しい里親様にもらわれていき、今ではとんでもない甘えん坊になっているそうだ。
 
攻撃をしたにもかかわらず、反撃をされなかったということが、こちらに敵意が無いことの証明になり、人間不信に凝り固まっていた猫の心をときほぐすきっかけになったのかもしれないと愚考している。
 
上記ほどではないにしても、かみ癖のなかなか直らない猫がいるが、その仔にとって咬むことは愛情を確認するための手段なのかも知れないと思うことがある。もしそうなら、しつけと称して猫が咬むたびに体罰を加えるようでは逆効果になるだろう。
 
念のため、申し添えておくが、上記の感想は動物行動学に基づいた物ではなく、あくまでも個人の主観によるものである。

前置きが長くなった。ここからは人間の話。

生まれたときから、愛情一杯に育てられた人間にとっては第三者を無条件に信頼することはそれほど難しいことではないのかも知れない。しかし、機能不全家庭や、そもそも家庭というものを知らずに育った人間の中には、他人に対峙するときに、その人が自分にとって敵なのか味方なのか、益をなすのか害をなすのかを判別してからでないと不安を覚える人もいるだろう。
 
そんな時、ある人は不安を抱えたままで怯えて過ごし、又ある人は不安に耐えられずに無意識に様々な方法で第三者を試そうとする。
 
例えばの話だが、境界例と言われる人達の中には、精神科医の感情さえ操作して「怒り」を惹起させる能力に非常に長けた人がいる。これは精神医学的には投影性同一視というらしいが、それだけではなく、これも他人がどれだけ自分を受容できるかを無意識のうちに試さずにはいられない不安や不信といった心性が隠れているのではないか、なんて素人ながらに考えてみたりする。
 
診断名が付く程ではなくとも、健常から疾病へと至るスペクトラム線上には、無意識のうちに人の感情を害してしまい、それに気がついて自分もまた傷ついてしまう人々の存在がいるのではないか。
 
里子になる子供が全て、心に問題を抱えていると主張するつもりはない。ただそれまで、接点のなかった大人と子供とが一緒に暮らすようになった時に、起こるかも知れないことを心の問題を参考にして少し考えてみたいのだ。
 
里子が大人に対して完全に心を閉ざしていたり、生きるために必要以上によい子を演じていたり、上記に挙げてきたように無意識に他人を試さずにはいられなかったりした場合には、里親は難しい対応を迫られるのではないか。
 
子育てや児童心理学の本、あるいは里親研修でのケーススタディにならって、マニュアル通りの対応をしようものなら、それが愛情によるものではなく里親の自我防衛から来るものであることを子供はたちまち見抜いてしまうだろう。それは子供を愛する素振りをしながら、しょせんは子供より自分が大事であるというメッセージを与えてしまう。
 
対人関係を専門に仕事をしている人達は共感することが大切だとよく言う。里親が里子に共感するとはどういうことだろう。恵まれない境遇に生まれたことを哀れむこと?それは同情とか憐憫であって、共感とはちょっと違うんじゃないか。傷ついた子供と一緒に傷つくこと、傷つく勇気覚悟を持つこと。ちょうど、僕が人間不信の野良猫に酷く噛みつかれてしまったように。
 
里親の器が脆ければ、傷ついた途端に器が壊れてしまう。器が小さければ、子供の感情を受け止めきれない。しかし、もし里親の器の強度や大きさが里子とうまく合えば、お互いの人生にとって有意義な時間となることは間違いないだろう。
 
あえて問題点ばかりを挙げたのだが、欧米辺りでは養子縁組がよく行なわれていると聞く。そして、僕自身が泰国滞在中に見聞きしたことだが、田舎の夫婦が現金収入を得るために都会に出稼ぎに行くときには、子供は祖父母に預けてしまって、年に数えるほどしか会うことは無かったりする。また、育てられない子供を養子に出すこともよくあるようだ。それでも、子供が親を思う気持ちはとても強い。まぁ、あの国で人を狂わせる物は貧困とドラッグと酒が主だから、その他の問題が顕在化しないのかも知れないが…。
 
またまた、猫の話になってしまうが、我が家にいる猫達は皆等しく可愛く愛おしい存在だが、敢てどの仔が一番可愛いかと言えば、家中のあちらこちらにスプレーをばらまき、夜中の3時4時にうるさく鳴いて安眠を妨げ、他の猫とよく諍いを起こし、嫉妬深く、よく噛みついてくる問題児を挙げることになる。手の掛かる子ほど可愛いというのは本当だとつくづく思う。
 
告白すると、僕自身が機能不全家庭で育ち、年を取った今でも、時々知らず知らずのうちに表れる自分の中の攻撃性を持てあましている。そのような人間の感想なので酷く偏っているし、また間違っているだろう。
 
猫に対しての興味は人一倍有るのだが、人間に対しての興味はあまりない自分には些か手に余るテーマだった。ましてや児童心理学?何それ?状態の上に、里親研修を受けてこられた高円寺ららぁ氏ご夫妻にとっては的外れな感想だったかも知れない。全くお恥ずかしいかぎりだ。困難な選択をした高円寺ご夫妻には敬意を表すると共に、近い将来、里子を迎えて素敵な時間を過ごされることができるようお祈りいたします。また、僕自身も無意識のうちに人の感情を害してしまうきらいがあるので、この記事が高円寺ららぁ氏の気分を害することのないことを祈って、おわりにする。